Parallel World A.A.

ときどき、といってもそんなにしょっちゅうではないが、自分には何もないと認識することがある。

僕は、多くの人に愛されるわけでもないし、多くの人を愛しているわけでもない。人のためになることをたくさんしているわけでもないし、されているわけでもない。趣味がたくさんあるわけでもない。友人がたくさんいるわけでもない。社会との関わりを強く求めているわけでもないし、社会から役割を求められているわけでもない。

ものをたくさん持っているわけでもないし、買いたいものがたくさんあるわけでもない。好奇心が旺盛なわけでもないし、興味のあるものがたくさんあるわけでもない。スポーツをするわけでもないし、体を鍛えているわけでもない。もちろん、人格者でもないし人柄がすばらしいわけでもない。感受性や想像力が豊かなわけでもなく、観念的な世界を深く追求しているわけでもない。

いったい僕は、何をしているのだろうか。何かを求めているつもりなのに、よく考えると何もないではないか。そんなふうに認識することがある。そんなにしょっちゅうではないが。

ひょっとしたら僕は、何かをしないことによって他人との差異化を図ろうとしているのかもしれない。何かをすることで違いをつくるのではなく、何かをしないことで違いを際だたせようとしているのかもしれない。前へ進むことではなく、降りることで違いをつくろうとしているのかもしれない。あるいは、何でもある父親を前にして、お勧めの生き方を慎重にはずしているのかもしれない。

それとも、これは、何かをしないことの言い訳なのだろうか。あるいは、何かをすることのリスクを恐れているだけなのだろうか。単にプライドを維持しようとしているだけなのだろうか。

たぶん、これは言い訳であり、僕はリスクを恐れているのであり、プライドを維持しようとしているだけなのだろう。たぶん、そうだろう。

もっとも、少し考えるとわかることだが、自分には何もないという認識は、何でもあるという認識の裏返しにすぎない。半分まで水の入ったコップを前にして、「たった半分しかない」と認識するか、「水が半分もある」と認識するかの違いでしかない。それはよくわかっているのだが、ときどき「何もない」ほうの回路へ迷い込む。一度迷い込んでしまうと、出てくるのに少し時間がかかる。

ときどき、といってもそんなにしょっちゅうではないが、僕にはそんなことがある。

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