Parallel World A.A.

世間

僕が、世間という不思議な言葉の存在を知ったのは、徳島に帰ってきて職場の人と付き合うようになってからです。それまでは、自分で使ったこともなければ、聞いたこともありませんでした。

でも、仕事を始めてから、ある種の人が、世間という言葉で表される共同幻想のことをとても気にしているという事実に気がづきました。

実は今でも僕は、この言葉の表す意味を、あまりよく理解していません。想像力を働かせてみるのですが、世間という言葉が表す具体的な範囲を測りかねています。

わりと年配の人が使う場合、それは近所の人、親戚の人、身内の人を指すような気がします。地縁血縁で結ばれた関係者といったところでしょうか。でも、もう少し若くなると、自分を取り囲む社会にいる人々や、マスコミが表現する社会のことを指しているような気がします。

特に今は、マスコミが、世間の目をつくる役割を果たしているように僕は思います。ムラ社会で、みんなが世間という名の幻想を共有していたように、現代ではマスコミが、ある種の標準的な世間幻想を無自覚的に提供しているように思います。

世間という幻想は、時には人々の自由で自発的な行動を阻害します。世間という権威に依拠した相互監視によって、抑圧的なムラが形成されます。嫌な社会です。

英語に、peer pressure という言葉があるように、たぶん、欧米社会にも、そういった種類の圧力はあるのだろうけれど、たぶん今の僕を取り囲んでいる社会の状況とは、ずいぶんと違っているように思います。

例えばオランダの場合。

有名な話だけど、オランダの家にはカーテンがなかったり、たとえあっても夜でも閉めなかったりします。これは、正しいことをしている自分の生活を隠す必要はないという、キリスト教カルビン派の伝統だという人もいます。伝統かどうかは、よくわからないけど、徹底した個人主義であることは確かです。そう言えば、むかし行ったオランダの家、特に窓の飾りは美しかったですね。

とにかく、はやく「世間」という幻想が、この地上からなくなってしまえばいいのにと思います。

<絵:吉野川#8>

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