Parallel World A.A.

海辺のカフカ(村上春樹)

この小説を読んで感じたことのひとつは、登場人物が、とても受け身的であることです。

受け身的だと感じた理由は、たぶんこの小説が、外側の世界からの抑圧ではなくて、内側の世界の抑圧を描いているからだと僕は考えました。ただ、そういう見方は、僕のオリジナルの考えだというわけではなくて、少し似たようなことを「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」の評論で読んだことがあります。

くわしく言うと、こういうことです。

昔は「外側の世界」にたくさんの抑圧があって、同時に、たくさんの抵抗がありました。

労働者は組合を作って資本家と交渉し、女性は男性の抑圧に異議を申し立て、公害の被害者は企業に向かって裁判を起こし、学生はデモ行進をして体制に抵抗し、芸術家は、既存観念からの脱却を求めて次から次へと新しい試みに挑戦していました。

そして、外側の世界からの抑圧に対して、能動的に抵抗する営みの中に、世の中が前へ進む感覚があったり、あるいは解放があったり、感動があったり、新しい芸術の誕生があったりしました。

ところが今は、外側の世界からの抑圧が、昔に比べたら相対的に少なくなって、同時に、とても見えにくくなりました。そして、社会と自分とのつながりが見えにくくなるにつれて、多くの人が自分の内側からの抑圧に悩まされることになったというものです。

この小説の登場人物は、外側の世界からの抑圧がなくて、どこへ行こうと、何をしようと全く自由でありながら、内側に圧倒的な抑圧を抱えている。自分で、自分の周りに張り巡らした、あるいは張り巡らさざるを得なかった高い高い壁に囲まれて、身動きがとれなくなっている。

だから、受け身的に見えるのだと思います。

どこへ行こうと、何をしようと完璧に自由でありながら、身動きがとれない。どうしていいかわからない。こういう状況は、とてもつらいものです。経験するとわかるけど、時間がとても長く感じられます。

そういう時は、たぶんこの小説の登場人物のように、直感や神話的世界に身をゆだねてみるといいのかもしれません。

HOME BACK NEXT