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ベン・ベックマンは顔をしかめた。
そのまま回れ右をしようとしたのだが、相手の方が一枚上手だった。
「久しぶりだねぇ。副船長」
市場の真ん中で、さも親しげに声をかけられては――無視する方が人目を引いてしまう。
嫌々ながら、声の主の方へと歩み寄った。
声の主は、今日は質素な黒の木綿のドレスで、同じ黒のサンボンネットをかぶっていた。
顔の前に垂らしたベールも黒で、一見そこらの商店の寡婦に見えた。
彼女が高級娼館の女主人だと言い当てる者はまずいまい。
まして、この町の実質的な支配者なのだとは。
「こないだは、ありがとうよ」
「…礼を言われる筋合いはない」
きっぱりはっきり無い!
この女は、シャンクスを自分の館に連れ込んだ上、女達のオモチャにしてくれたのだ。
大事な大事なベンのお頭を―――思い出すと、頭に血が上りそうだった。
女達に囲まれて、“白”に包まれていたシャンクスの姿まで思い出してしまう。
「私たちには、充分礼を言うに値することだよ。
何しろあの子を貸してくれて、ウチの子達に怪我させたりしなかったんだからね」
貸してくれて、が聞いて呆れる。
断りもなく拉致したんだろうが!とは、ベンは言わなかった。
戦闘状態でもないのに、しかも武器を持ってない相手に手など出したら、シャンクスが嫌がる。
それを見越してのことだろうという罵りも心の中だけにしておいた。
「あの子……」
女の声のトーンが変わった。
「不思議な子だよねぇ。名だたる海賊団の頭目だというのに、ちっとも雄の臭みがない」
「…どういう事だ」
「言葉通りさね。男だからって偉ぶらない、女だからって見くびらない」
なかなかできないことさね。
そう言って、女は小さく溜息をついた。
「こんな商売してると特にね、男の裏も表も見えてくる――
見えなけりゃやってけないんだけどね」
私もウチの子達も――
「あの子が来てくれて、楽しかったよ」
「それで、今日は、あの子は?」
やっぱりそう来たか。ベンは一気に警戒心をフル発動させた。
「あんたに何の関係がある」
「心が狭い男だねぇ。少しはあんたのお頭を見習ったらどうだい」
――余計なお世話だ!
「見習って、どうこうなるもんじゃない」
捨て台詞のつもりだったのだが、女は素直に肯定した。
「そうだね」
なろうとしてなれるもんじゃない。誰もあの子にゃなれないね。
「もう一度会いたいねぇ。あんた達の船が出ていってしまう前に」
「俺は二度と会いたくない、丹頂」
名乗ったはずのない名を呼ばれて、女の目が眇められる。
「冷たいねぇ。あの子以外の人間はあんたにゃ意味がないのかい」
「…大事なだけだ」
何がとは言わない。女――丹頂も聞き返さない。
賑わう市場の真ん中で、二人は、この場にいない“一人”を挟んで睨み合った。
「そう、それもいいだろうさね」
大切に大切に。彼のためなら、何でもして。
誰にも攫われないように。その腕の中に囲って。
「けど、あの子は、いつだって一人で飛んでいける子だよ」
あんたと違ってね。あんたがどんなに思ってもね。
その声は、ベックマンにとって呪詛に近かった。
「…知ってるさ」
誰よりもよく……
自分の腕など何の縛めにもならないことは分かっている。それでも……
「それでも……俺はシャンクスのものだ」
「そうかい……」
なら、手をお出し、そう言って彼女が渡したものは
「お守りにおし」
ベンでさえ見たことのないような大粒の宝玉だった。明るいグリーンに輝くエメラルド。
所々に深みのあるマラカイト・グリーンが入っている。本来なら、瑕になるのだろうが、
あまりに鮮やかな碧ゆえに、かえって稀少品としての価値を獲得している。
宝石としてだけでなく、“守る”宝玉としても超一級の品であることが掌に伝わってきた。
しかるべき市場に出せば、ちょっとした船の一艘くらい購えるほどの値が付くだろう。
「あの子を縛るためじゃなく。あの子と生きるために願をかけるといいよ」
「あんたには、何より必要なもんだろう?
私には、もう充分役に立ってくれたからね。」
その輝きに見とれていたベックマンは、はっと我に返った。
「こんな高価なものをもらう謂われはない」
「一夜の夢の代金さね。おっと、間違えるんじゃないよ。
あの子を買おうってんじゃないんだ。
あの子のいた“刻”を買うのさ」
「―――本当にねぇ、あの子が来てくれたら、うちも安泰なんだけど」
――頭に血が上った。
それが本音かっババアっ!
不覚にも受け取ってしまったエメラルドを叩き返そうとしたベックマンを遮るように、
女はついと、背を向けた。
すばやくて優雅、まさしく“丹頂”の動き。
十二分に離れた後、唇を噛むベンの耳もとに、彼女の囁きが風に乗せて聞こえてきた。
「かっかおしでないよ。ベン・ベックマン。
あんたってば、もう充分にいい目してるんだからね」
それは笑みを含んでいた。
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