「辛ぇ?」 意外なほど優しい声が聞いてくる。 同時に、手が下りてきた。左の手だ。 ■■がシャンクスの船に乗ってから一月が経っていた。 その間、■■は、船長室の横の船室に籠もりきりだった。 こんな事態は、ベンにも、予想外のことだった。 故国からイースト・ブルーへの長い船旅にも、船酔いなど起こさなかったものを。 船室と言っても、倉庫も同然の小部屋だったが、 個室というのが、そもそも船の中では贅沢な代物であり、 船長の執心を物語っていると専らの評判だった。 ■■に、その噂を教えた男は、ストレートに聞いてきたものだ。 お頭には、もう誘われたのか、と。 慌てて首を横に振る■■に、首を傾げながら行ってしまった。 「俺の目も曇ってきたのかなぁ」と言いながら。 「おまえがどうしても辛いんなら、船を下りたっていいんだぜ?」 …違うっ! 喉がひりついた。辛いのは、船酔いじゃない。 過酷な船の暮らしでもない。 本当に辛いのは、この船では自分にできることが 何もないこと―― シャンクスのために何もできないこと―― 「なぁ、■■、俺はお前を働かせるために連れてきたわけじゃないんだぜ」 「お前の好きにすればいい。故郷へ帰りたけりゃ、お前の故郷に連れてってやるよ」 …今さら……帰って、何をしろと… 「陸に上がりたければ、好きな港で降ろしてやるよ。 お前は自由なんだからよ」 …陸で暮らす?この男のいないところで? 「船に残るなら残るで、どうしたい? 俺の仲間に、海賊になりたい? それとも、俺に守ってほしい? お前が望むとおりにしてやるよ」 …おまえは…どうしたい?」 「おまえが、決めることだ」 …自分が決める…… …何の役にも立たないのに……ただ… …この人の傍にいたいなど許されるのだろうか…… …置いて欲しいと懇願すればいいのだろうか… ■■は、唇を噛んだ。なけなしのプライドが口に蓋をする。 拒絶されるのに慣れた心は、諦めろと促す。 ――もとから同じ場所に立つことが不遜だったのだ。 この眩しいばかりに輝くものと――身の程を知れ、■■と…… 「自分は…」 帰ろう、故国には帰れなくとも、陸へ。どこかの港へ。 そこで最後の時までを過ごそう。 朽ちた心を抱いたままでも、この身一つを隠してくれる地が、どこかにはあるだろう…… 「自分は…」 震える唇をなだめ、口を開こうとした■■を、遮るように、 「……けど、俺はお前にいて欲しい」 シャンクスは、きっぱりと言い放つ。 いつも笑っているようなシャンクスの声が、すっとマジなものになった。 「俺はおまえといたいんだ。 おまえだって、おれといたいはずだ」 「なぁ、俺がおまえを連れてきたのはおまえが行きたいって叫んでたからなんだぜ」 「…俺は、生まれてすぐに捨てられた赤ん坊だった」 拾って、育ててくれたのは、海賊上がりの親父だ。 親父はいつも言っていた。生まれたばかりの俺は、泣いて親父を呼んだんだと。 俺がおまえを拾ったんじゃない 拾われたのは、俺の方だ お前が泣いて、俺を呼んだんだ 今ここに生きているのは、お前の力だ なぁ、誰かに望まれなかったとしても、別の誰かに望まれたんなら、 それは十分割の合うことじゃないのか? 「生まれたばかりの俺は、泣いて親父を呼んだ。 生まれてもなかったおまえは、哭いて、俺を呼んだ」 そうさ、おまえが俺を呼んだ。 「俺たちは、出会うべくして出会ったんだ」 シャンクスの指がベンの髪に触れる。嫌……ではなかった。 「けど、無理強いするこっちゃねぇ。 おまえが決めるこった。どうする?」 優しい声、優しい手――剣を振るい、あれだけの血を流したこの手が、 どうしてこんなに優しく■■の頬を撫でることができるのか…… ■■は、逃げることなどできないと知った。 離れられない…この左手からは。 「…あんたと…いたい…あんたと共に」 「…守ってもらいたいんじゃない、ただ…いっしょにいたい」 「ああ、いっしょにいよう、■■」 「…その名は、呼ばないでくれ」 望まれなかった子どもの名だ。何の未練もない。 「と言って、名前無しじゃなぁ。名無しってわけにもいかねぇし」 「あんたが付けてくれ」 あんたがいなけりゃ始まらなかった人生だ。 陸は、もうどこにも見えなかった。 見渡す限り水だけだ。 空と海の境界さえ、おぼろに霞んで区別が付かない。 「……水天一碧」 古い書籍にあった言葉は、現実を写したものなのだと“ベン”は、しばし見とれた。 「よう、もう大丈夫なのか」 以前、声をかけてきた男だった。くるくるの巻き毛に見覚えがある。 こくりと頷くベンに、「そりゃー何より」と言いながら、ばしばしと背を叩く。 「あんたがひっくり返ってる間中、お頭、そわそわしちまってさぁ」 「シャンクスが?」 「ああ、そりゃー見ちゃいられなかったぜ」 「なんせシャンクスに惚れて船に乗る奴は、少なかないけど、 シャンクスが惚れて船に乗せた奴は、そうはいねえからな」 「惚れて…?」 「あん?今さら何言って。だから、お城から付いてきたんだろう、あんた」 確かに…その通りではあるのだが…… 「シャンクスが惚れて、というのは正しくない」 「はん?」 「自分がシャンクスに惚れて付いてきたのだ」 男はしばし絶句し、それから大笑しながらベンの肩を叩いた。 「いいぜ、あんた。その天然ぶり」 お頭が惚れ込むだけのことはある。 そう言って笑うにこにこした笑顔は、ベンが初めて見るものだった。 ベンを値踏みするでもなく、欲の対象にするのでもない笑い―― |
| 2002.7.27 |
| ☆ 何とか先が見えてきましたので、初っぱなの部分だけアップ。 こーゆーお話です。 とっても暗ーい出会いでございます。 お嫌な方は、申し訳ありませんが、帰ってくださいませね。 |
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